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【 四大奇書特集 】




四大奇書とは


四大奇書(しだいきしょ)は、中国で元代から明代にかけ、俗語体で書かれた4つの優れた長編小説の総称。「奇書」とは「世に稀なほど卓越した書物」という意味である。これは明末の文学家馮夢竜によって定められたものである。「四大奇書」は清代前期の書店が販売促進用につけたキャッチフレーズであり、その名は清中期乾隆年間(1736年 - 1795年)に芥子園刊本において確立した。


「四大奇書」に挙げられているのは『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』の4作品である。だが、本場中国では清中期になってから『金瓶梅』の代わりに『紅楼夢』を加えたものを「四大名著」と呼ぶようになり、「四大奇書」よりこちらの方が一般的である。


本サイトでは、『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『紅楼夢』の4作品を紹介します。


全作品の本編はネット上で読むことができます。さらに、中国語勉強にも役立てるため、中国語の発音記号を付けたピンイン表記版も用意しています。






三国志演義


 『三国志演義』(さんごくしえんぎ)は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。四大奇書の一つに数えら曹操れる。

 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。

 後漢末・三国時代を舞台とする説話や講談は古くからあり、すでに北宋の時代には劉備と蜀漢を善、曹操と魏を悪役とするイメージが定着していたという記録がある。元代には「全相三国志平話」(全ページ絵入り三国志物語)が刊行されており、「三国志演義」の原型の一つと目されている。このような潮流の中で「三国志演義」は成立した。成立時期は元末・明初とされる。本書は、蜀漢を正統・善玉とする講談の潮流を維持しながらも、それまでの説話や講談にあった極端な荒唐無稽さや歴史年代を無視した展開を排し、黄巾の乱から呉の滅亡までの後漢末の重要事件と陳寿の「三国志」の扱う範囲を収めている。漢王朝の血を引く高潔な主人公劉備と王朝を支配し専横を振るう曹操との対立軸を中心とした高い物語性、史書への精通に裏打ちされた逸話の巧みな選択と継起、白話(口語)とは言いながらも洗練された文章で人気を博した。

 本書の書名は清代より『三国志演義』『三国演義』などと呼ばれ、一致を見なかった。民国期の小説研究では、魯迅『中国小説史略』、胡適『白話文学史』が全て『三国志演義』という名称を用いたが、新中国成立後は『三国演義』に統一された。現在の中国では全て『三国演義』と呼称されている。また、嘉靖本の版本名から『三国志通俗演義』という名称が用いられることもある。
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 また、本書の成立当初から『三国志』と呼称されることも極めて多かった。これは歴史小説としての箔をつけるために、歴史書である『三国志』の書名を借りたものと思われ、李卓吾本系の版本を中心に『三国志』『三国志伝』といった名称が盛んに用いられた。しかし、通俗小説と歴史書が同じ名称で呼ばれたことで、小説と歴史の混同する人々がいることは清代から批判されてきた。現代中国においては、『三国演義』の呼称が徹底されており、日本からの輸入メディアを除いて三国志演義を元に作られた小説や映画等が『三国志』と呼ばれることはまずない。例えば民国期に作られた連環画『三国志』は、現代中国では『三国演義』という書名に改められて再版されている。

 日本ではこのあたりの区別については鷹揚であった。戦前から幸田露伴・久保天随などが『三国志演義』あるいは『演義三国志』という呼称を用いており、戦後も立間祥介の訳本は『三国志演義』であり、研究者の呼称も同様であった。また岩波文庫の訳本、吉川英治の小説、横山光輝の漫画等が全て『三国志』という名称で刊行されている。日本国内における各種解説本などでこれらを区別する場合、『三国志演義』の記述を「演義」、『三国志』の記述を「正史」という呼び分けるのが通例となっている。


水滸伝


 『水滸伝』(すいこでん、水滸傳)は、明代の中国で書かれた伝奇歴史小説の大作、「中国四大奇書」の一つ。

 施耐庵(あるいは羅貫中)が、それまでの講談(北宋の徽宗期に起こった反乱を題材とする物語)を集大成して創作されたとされる。なお、「滸」は「ほとり」の意味であり、『水滸伝』とは「水のほとりの物語」という意味である(「水のほとり」とは、本拠地である梁山泊を指す)。

 時代は北宋末期、汚職官吏や不正がはびこる世の中。様々な事情で世間からはじき出された好漢(英雄)たちが、大小の戦いを経て梁山泊と呼ばれる自然の要塞に集結する。彼らはやがて、「悪徳官吏を打倒し、国を救う」事を目指すようになる。

 水滸伝の物語は実話ではない。しかし14世紀の元代に編纂された歴史書『宋史』には、徽宗期の12世紀初めに宋江を首領とする三十六人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されている。講談師たちは12世紀中頃に始まる南宋の頃には早くも宋江反乱の史実をもとに物語を膨らませていったと推定され、13世紀頃に書かれた説話集『大宋宣和遺事』には、宋江以下三十六人の名前と彼らを主人公とする物語が掲載されている。

 15世紀頃にまとめられた水滸伝では、三十六人の豪傑は3倍の百八人に増やされた。また、荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改め、梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし、反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し忠義をつくすことを理想とする集団と設定されて、儒教道徳を兼ね備え知識人の読書にも耐えうる文学作品となった。とは言え、反乱軍を主人公とする水滸伝は儒教道徳を重んじる知識人にはあまり高く評価されず、もっぱら民衆の読む通俗小説として扱われた。その風潮の中で、明末の陽明学者で儒者の偽善を批判した李卓吾が水滸伝のような通俗小説を高く評価したことはよく知られている。同じ時期に農民反乱を扇動する作品であるとして禁止令が出されており、また清代には京劇の題材にとられ、108人が皇帝に従うという展開が西太后などに好まれた。

 中国共産党では、「投降主義」的であると見なされ、降伏経験のある幹部や原則主義的な立場から見て妥協的であるとされる幹部への間接的な批判として水滸伝批判が行われた。1975年の毛沢東の名による水滸伝批判では、宋江が前首領の晁蓋を棚上げして実権を握り、自ら首領となった挙句に朝廷に帰順したことが革命への裏切りであるとして非難され、批判的に読むための連環画形式のものも出版された。これは「四人組による周恩来批判であった」と後に解釈された。

 文化大革命が党によって全面批判された後は、このような政治的位置付けは行われなくなり、京劇の上演なども復活している。

 日本へは江戸時代に輸入され、1728年(享保13年)には岡島冠山により一部和訳され普及し19世紀初めには翻訳、翻案が数多く作られ、浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が読本の挿絵や錦絵に描いた[1]。

1773年(安永2年)には建部綾足『本朝水滸伝』が成立した。これは本編を換骨奪胎し、さらに日本の歴史をも改変した、現在の伝奇小説の先駆けともなる作品である。ほかに『水滸伝』ものとしては『新編水滸画伝』を著したこともある戯作家曲亭馬琴は特に水滸伝を日本を舞台とする物語に取り入れ、代表作となる『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』を書いた。また、パロディである『傾城水滸伝』も書いている。

江戸時代後期の侠客である国定忠治の武勇伝はのちに『水滸伝』の影響を受けて脚色された。浪曲や講談で知られる『天保水滸伝』は、侠客笹川繁蔵と飯岡助五郎の物語に水滸伝の名を冠したものである。


西遊記


  『西遊記』は、中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語。全100回で中国四大奇書に数えられる。

 著者は、『淮安府史』(明、天啓年間成立)に、呉承恩(1504年頃 - 1582年頃、江蘇省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、かれが作者であると20世紀の中国では定説化していたが、後述のように批判的な説が存在し、明確な結論は21世紀初頭ではまだでていない。詳しくは後述。

 唐の時代にインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌『大唐西域記』を基に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大伝奇小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。 なお人間の登場人物には玄奘三蔵や唐の太宗皇帝など実在の人物が顔を並べるが、書かれている内容は完全にフィクションであり、史実とは一致しない。

 中国で16世紀の明の時代に大成した伝奇小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語。著者は呉承恩。唐の時代にインドへ渡り仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌「大唐西域記」を基に、道教、仏教の天界に仙界、神や龍や妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大伝奇小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。


大鬧天宮 (だいどうてんぐう)


 

孫悟空大いに天宮をさわがす
 東勝神洲(とうしょうしんしゅう)傲来国(ごうらいこく)花果山(かかざん)の仙石から天地の霊気を纏った石猿が誕生する。猿は途轍もない度胸の持ち主で、山奥の滝壺にて洞天福地・水簾洞(すいれんどう)を発見した功により、花果山の周辺の猿を従えて王となり、美猴王と名乗る。ある時、美猴王はこの世の森羅万象について考えていくうち、生きとし生ける物の生死に悲観し、不老不死を願うようになり、西牛貨洲霊台方寸山まで仙術を身につけに行く。師匠・菩提祖師から孫悟空という法名を授かり、七十二般の術を身につけるがまだ満たされず、とうとう四大竜王の竜宮ひいては天界にまで殴り込みに行き、天界を統べる玉帝より弼馬温(ひつばおん)の位を授かる。当初悟空は弼馬温の実態も知らず喜んでいたが、後に弼馬温が只の馬飼いと知るや否や忽ち激怒し、自ら斉天大聖と名乗り、哪吒太子や顕聖二郎真君相手に天界で大暴れする。西王母の蟠桃を食らい、太上老君の金丹を平らげ、罰として八卦炉に入れられるも、悟空は「銅筋鐵骨 火眼金睛」の不死身の体となって生きのび飛び出した。遂には釈迦如来と「俺は地の果てまでも飛んでいってみせる」と賭けをする。地の果てらしき場所に立っていた5本の柱に到達したしるしとして悟空は一筆書き、柱に小便を引っかけて得意となって戻ってくるものの、実は釈迦の両手のなかをぐるりと周回しただけであった。釈迦が示した手に自分の署名を見て呆然とした悟空はその場を逃げようとしたものの、あっという間に五行山の下敷きにされてしまった。

 

三蔵が取経に出るまで


 

悟空が五行山の下敷きにされてから五百年の時が流れた。時は唐代、太宗の御世であった。太宗は一時病の為に死んで地獄を巡ったが、冥土の高官達の目溢しにより再び現世で黄泉帰った。やがて太宗が閻魔の言い付け通りに水陸大会を催し、その時後に取経の僧に選ばれる玄奘を見出す。所変わって天界では観世音菩薩が弟子・恵岸と共に下界へ降り立ち、悟空を含む諸々の罪人達にある取り引きをした。天界にて罪を犯していたのは悟空だけではなかった。その罪人達とは、天の川の水軍を統べる天蓬元帥であったが月の女神・嫦娥を誑かした為に天界を追われ妖仙と化して深山にて暴れていた猪八戒、天界の軍人であった捲簾大将が天界の宝である玻璃の器を壊して天界を追われ流沙河にて人を喰らう妖仙となった沙悟浄、そして父竜王の竜宮で宝珠を焼き死罪を言い渡されその間中空に逆さ吊りにされて苦しんでいた西海竜王敖閨の子・玉龍である。観音は銘々にいつか現れる取経の僧と共に天竺へ参り、贖罪を果たすことを約束させる。功によっては彼らを仏にしてもいいということを条件に・・・。その取経の僧こそがあらゆる経典を学び、人徳に優れ、多くの人々から聖僧と敬われていた玄奘三蔵であった。彼もまたかつて釈迦の二番弟子(金蝉子)であったのにも拘らず、釈迦の説法を侮った故に罰として下界に転生させられていた。やがて貞観13年9月3日(639年)、三蔵は太宗と菩薩の命で天竺へ行くことを決意し、菩薩から教えられた己に従いし弟子達を探して旅立ったのだった。最初に三蔵は五行山にて悟空を助け出し、続いて鷹愁澗にて玉龍を導き、更に高老荘にて八戒を、最後に流沙河にて悟浄を弟子にしたのだった。



旅の途中での妖仙との戦い


 

贖罪の旅をする三蔵一行は天界が用意した八十一の難と対峙する。三蔵の袈裟(けさ)が黒熊怪に奪われる、三蔵が黄風大王に攫われる、太上老君(老子)の炉の番人の金角・銀角大王と戦う、牛魔王の子・紅孩児と争う、観世音菩薩が飼っていた金魚が逃げ出した霊感大王と戦う、太上老君の乗用牛の獨角兕大王と戦う、西梁女人国という女だらけの国で心ならずも三蔵と八戒が子を孕む(無論後に堕胎した)、三蔵が釈迦如来を刺した蠍の精に誘惑される、火焔山で悟空が紅孩児の母・羅刹女に芭蕉扇で吹き飛ばされる、その夫にして紅孩児の父・牛魔王と対決する、朱紫国で観世音菩薩の乗用金毛毛孔の賽太歳大王と戦う、獅駝嶺で文殊菩薩の乗用去勢青獅子の一大王・普賢菩薩乗用黄牙白象の二大王・大鵬金翅鵰の三大王と戦う、小子城で寿星(南極星)の乗用の鹿である比丘国国丈と対決する、鎮海寺で哪吒太子(なたたいし)を兄と慕う地湧夫人(正体はネズミ)と戦う・・・など数多の苦難が一行を待っていた。



西天取経


  

旅の終盤、とうとう天竺に辿り着いた一行。底のない渡し舟で川を渡る。その時上流から三蔵の抜け殻である死体が流れてきて、三蔵は凡体を脱することができたと喜ぶ。その後釈迦と謁見、経典を授かるもそれは無字の経典だった。新たに字のある経典を授かるが、旅の日数と経典の数が八つ合わない為、一行は雲に乗せられて8日間のうちに東土から西天へ帰ってくるように命じられる。観世音菩薩が三蔵の災難簿を見るとあと一難足りないとある。そこで雲から落とされる一行。通天河に落ちた後、経典を乾かすが紙が岩にくっ付き、1字はがれてしまう。長安に戻って太宗皇帝と謁見する一行。経典を渡し、雁塔寺に納めると八大金剛が現れて一行を連れ去っていった。その後西天にて釈迦に称賛の言葉をかけられ、遂に五人は罪を許され、三蔵は旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)、悟空は闘戦勝仏(とうせんしょうぶつ)、八戒は浄壇使者(じょうだんししゃ)、悟浄は金身羅漢(こんしんらかん)、玉龍は八部天竜(はちぶてんりゅう)と成る。悟空の頭からはいつの間にか緊箍の輪が消えていた。



紅楼夢


 紅楼夢(こうろうむ)は、清朝中期乾隆帝の時代(18世紀中頃)に書かれた中国長篇白話小説。作者は曹雪芹とするのが定説だが、別人であるとする異説もある。三国志演義、水滸伝、西遊記とともに旧中国の傑作古典小説に数えられ、「中国四大名著」とも言われる。石頭記(せきとうき・いしき)ともいう。

 上流階級の賈氏一族の貴公子賈宝玉を主人公とし、繊細でプライドの高い美少女の林黛玉、良妻賢母型の薛宝釵の三角関係を軸に展開する。小説は上流階級の生活の細部を描き、主人公たちの交情を克明に記しながら進行する。清代末期から紅楼夢を専門に研究する学問を紅学といい、この言葉は現代でも使用される。毛沢東も愛読し、1950年代の中国で紅楼夢論争も戦わされた。現代中国でも非常に有名な小説であり、映画や演劇、テレビドラマ化されることが多い。

 この小説の特徴はストーリー中心のロマンではなく、大貴族の深窓の令息令嬢の心理のひだが繊細に描きこまれていることにある。士大夫の経世済民という表向きの世界ではなく、弱くて感じやすい「児女の情」をテーマとするといえる。三国志演義の「武」、水滸伝の「侠」に対して紅楼夢は「情」の文学であるとされる。その一方で、主人公たちは儒教道徳や官僚の腐敗、不正に対する痛烈な批判を口にしており、乾隆盛世と呼ばれた当時の社会に対する批判的色彩も帯びている。また、当時の上流階級の日常生活が登場人物400人を超える規模で細部まで克明に描かれており、文化史的にも価値があるとされる。男女の人情を描いた中国の長篇小説としては金瓶梅に次いで古いものであるが、恋愛模様がプラトニックに徹しており情感も洗練を極めている点において好対照の位置にある。

 作者とされる曹雪芹についてはよくわからないことが多い。雪芹は字で、名は霑(てん)という。曹雪芹の祖父は康熙帝の時代に江寧織造として江南で清朝のために情報収集活動を行っていた曹寅という人物である。康熙帝の寵愛を得て莫大な富を蓄積し、曹雪芹の父もその職を継いだが、雍正帝の時代になると寵愛は失われ、家産は没収された。一家は後に北京に移り、曹雪芹が紅楼夢を書いた18世紀半ばには粥を啜るような窮貧生活であったとされる。

 
 小説は上流階級の生活の細部を描き、主人公たちの交情を克明に記しながら進行する。清代末期から紅楼夢を専門に研究する学問を紅学といい、この言葉は現代でも使用される。現代中国でも非常に有名な小説であり、映画や演劇、テレビドラマ化されることが多い。







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